とろろの繊細日記

日々感じたことについて言葉にします

「人を恨むことで立っていられる」

 

僕の好きなドラマがある

 

「世界の中心で愛を叫ぶ」(TBSドラマ)

 

 

詳細なストーリー解説は割愛するが

ざっくり言うと

 

高校生の時彼女を白血病で亡くしてしまった主人公の心情を彼女と過ごした日々を回想する形で繊細に描く物語である。

 

 

 

だいぶ昔のドラマなのだがその中で忘れられないセリフがある

 

彼女の白血病が発覚した時に

彼女の父親が主人公に言うセリフだ

 

 

「君はいい奴なんだろうな。だからこそ君を憎むことでしか立ってられない。」

 

 

もちろん、病気になったのは主人公のせいではない。

 

 

でも、このセリフは痛烈に僕の中に残り続けている。

 

 

そして大人になった今、意味がわかる気がする。

 

 

人間の感情エネルギーは限りあると思う。

 

感情エネルギーがゼロになると

気力がなくなり倒れてしまう。

 

 

やっかいなのは感情エネルギーを生み出すのも

感情なのだ。感情をぶつけた相手の反応を見て、感情を生み出す材料にしている。だから人は刺激的な毎日の中で感情エネルギー切れにならない。

 

 

しかし、やり場のない消化不良の感情は感情エネルギーを生み出さない。例えば大事な人との死、恋人との理不尽な別れなどがそうだろう。自分ではどうしようもなかった、かと言っても誰のせいでもない。

 

きっと彼女のお父さんは主人公に感情をぶつけることで自己の感情エネルギーを絶やさないようにしたのだろう。

怒りという感情は反応が返ってきやすい。怒られても平然としている人はあまりいないからだ。

 

 

なんか、わかる。

人を恨むことや憎むことは

一瞬の防衛本能ともいえる。

 

 

永遠に恨み続けたくはないが。

 

#人間 #繊細 #恨み #別れ #怒り

「人それぞれ」の罠

僕は「人それぞれ」という言葉が好きではない

 

 

例えば、以下みたいな感じだ

僕「●●の仕事についたほうが、●●にとっていいと思うんだけどなあ」

友人「でも人それぞれ考え方があるから押し付けないほうがいいよ」

僕「え、人それぞれは当たり前じゃん?」

 

もちろん文脈にもよるが「人それぞれ」は多くの場合、

思考停止を「個を尊重する」という言葉で逃げている状態だと思う

 

 

 

もちろん個の考えは尊重されるべきであり、その考え方は同意である

 

 

 

個性は尊重されなければならない

 

 

 

 

重要なのは、その生き方や考えがその人なりに考え抜かれたものなのかどうかだ

 

 

 

もっと言うのであれば自己理解を深く行い、

他者の意見も受け止めたうえで考え抜いて出された結論なのかどうかだ

 

 

 

 

最近は少し価値観に触れる発言をすると「人それぞれ」といわれる

昔よりその機会が増えたように思う

 

 

そのわりには「なんでそう思ったの?」と聞くと自分の考えを言えない人も多い

「人それぞれ」が自分の中で作られていない

 

 

 

みんな自分の中に本当の「それぞれ」作ってほしい

 

 

本当の「人それぞれ」を作るために

愛をもって考えを言い合える世の中になってほしい

衰えるものVS衰えないもの

実行し続けないと「衰えるもの」ってありますよね

 

例えば、プレゼン能力。

自分の場合、定期で実施しないと確実にスキルが衰えていく。

スパンが開くとみるみるプレゼンが下手になってしまう。

具体的には「大勢にわかりやすく伝える力」がどんどん衰えていく。

 

一方で目の前の相手の話を聞く力(≒傾聴力)は

自分の場合実践しなくても衰えることはない。

 

 

この違いはなんだろうか・・・?

考えた結論、それは、無意識でできるまで落とし込めているかどうかだ。

もう少し具体的にいうとスキルとして完全に備わっているか、

それともまだスキル装着が不十分か。

 

本気で身につけたいと思ったことは

無意識でできるまでやめてはいけないのかもしれない

やりたいこと、やらなきゃいけないこと

「あれがやりたい」「これがやりたい」

毎日いろんなことを「やりたい」と思っているが、

行動までのハードルが異常に高い

例えば、もっといろんな人と話したい、資格の勉強をしたい、本を読みたい・・・

 

いざ行動にしようと思うとなぜかやる気にならない

1日ベッドでスマホを触ってしまうのだ。

 

全部、自分が本心からやりたいと思っていることなはずのに行動にできない。

 

ん?

 

「やりたい」という言葉に違和感を覚えた。

実は「やりたい」じゃなくて「やらなきゃいけない」と

思っているのではないだろうか?

 

正しくはこうだ

 

”人と話さないのいけない

"資格を取らないといけない

 

もちろん誰かに命令されているわけではない

自分の心から湧き上がってきた欲求だと思っているけど、

「〜たい」という言葉に違和感がぬぐえない。

 

そもそも何かを「やらないといけない」というのは、

達成したいことがあったり、ありたい自分の姿に近づくため。

つまり、目的達成の手段のはずだ

 

おかしなことにありたい姿や目的が言語化されていないのに

謎の義務感に追われている・・・。

 

目的やありたい姿が言語化されていないだけなのか

それともそんなものないのか

もし、ないとしたらこの「やらなきゃいけない」の正体は何なのか

 

みなさんはこんな感覚ありますか?